2009年11月アーカイブ

先日、郡山で行われました「知事抹殺」出版記念懇親会につづき
福島県福島市、会津若松市、いわき市で有志の方々による「佐藤栄佐久『知事抹殺』出版記念 励ましのつどい」が開催されます。
各界で活躍中の方にもゲストとして御講演いただきます。

☆いわきのつどい【終了】
12月16日(水)午後1時より
いわき市 パレスいわや
講師:阿部重夫氏(ジャーナリスト・月刊FACTA編集長)
会費:3,000円(本代も含む)


☆福島のつどい【終了】
11月28日(土)午後1時より
福島市 ホテル辰巳屋 8階
講師:手嶋龍一氏(外交ジャーナリスト・作家)
   宗像紀夫氏(主任弁護士・元東京地検特捜部長)
  ◎両講師の熱のこもった講演とともに
  ◎立ち見が出るほどの盛況にて、「福島のつどい」無事終了いたしました。
  ◎御来場の皆様、ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。

☆会津のつどい【終了】
12月7日(月)午後2時より
会津若松市 ルネッサンス中の島
講師:神保哲生氏(ビデオジャーナリスト)
   「物言う知事はなぜ失脚させられたのか
    ~メディア構造問題と刑事司法の関係」
   友人としてジャーナリストの下村満子氏も駆けつけてくださいました!
  ◎盛況にて、「会津のつどい」無事終了いたしました。
  ◎御来場の皆様、ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。

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コメント(0) スタッフ

承前。

原子力安全・保安院が経産省から分離されることと、プルサーマルを推進することが何やら関連しているかのような論は全く焦点がずれていると言わざるを得ない。

日本の政策決定は一度決定着手したらブルドーザーのように前進するのみで、何があっても後に戻る仕組みがない。私は、その経路依存の体制が問題であることを指摘してきた。

民主党新政権は八ッ場ダムを始めとして、140余のダム建設の意味と実効性・必要性、コストを再評価し見直しを進めている。これは日本の仕組みを変える革命的な作業である。

プルサーマルの問題は核燃料サイクルという、日本の原子力政策の方向性の問題であり、ダム・公共工事同様、国民の生命と負担、環境と将来という観点からはむしろダム以上に立ち止まって議論し、見直していく必要がある。

これから十年後には現在稼働中の原子炉も次々と寿命を迎える。
廃炉になった原子力発電所、使用済核燃料も含め、高レベル放射性廃棄物の最終処分の問題はまだ解決していない。トイレがない場所で、それを知りながら延々と飲み食いを続けているようなものである。

プルサーマル検討の際、福島県に来た資源エネルギー庁長官が初めて法律を作ることを表明した。最終処分に関する法律は出来たものの、実際にその「場所」の問題を本気で考える者はおらず、一時的に青森県に押しつけたまま問題は先延ばしにされている。
また日本では「原子炉施設には特定の設計寿命は設定して」いない。一方で、各所で施設の老朽化は指摘されている。つまり、原子炉が駄目になってから、その後のことを考えるとでもいうのだろうか。これまた、問題と議論を先送りにする非科学的で極めて無責任な態度である。

日本が健全に進んでいくことを考えた時、問題の解決を先送りすることで費用や危険性が雪だるまのように膨らんでいく核燃料サイクル問題こそ今、早急に解決しなければならない。

再処理は、使用済み核燃料をたらいまわしにすることで、最終処分場の不在を一時的に隠す詭弁である。しかも容易に核兵器転用可能なプルトニウムを生み出す。核不拡散の観点からも特に日本はより敏感であるべきであろう。

最終処分法の確立と処分場の確保がされるなら、プルサーマルなど積極的に推進する必要はない。ほぼ世界的には捨てられた高速増殖炉の夢を追って生成されたプルトニウムの言い訳としては、あまりにも国民にかかる負担は大きい。

費用便益で考えても安全性を考えても、莫大な費用のかかるプルサーマルではなく、通常の原子力発電所をワンススルーで運用したほうがよっぽどいい。原子力発電は枯れた技術であり、プルサーマルはそうではない。

最近は、CO2の削減にあたっての原子力発電の有効性がしきりに言われている。百歩、いや千歩譲ってそれを受け入れたとしても、プルサーマルを敢えて行うことは全く関連がない。

先進国で唯一、核燃料サイクル路線の推進を模索していた米国は、先ごろオバマ大統領がブッシュ政権下の再処理施設建設計画を中止とし、核燃料サイクル路線の大幅な見直しを行った。

高速増殖炉、プルトニウム、枯渇なく生み出されるエネルギー、こういった概念、夢、政策はもはや20年前のものである。

拙著「知事抹殺」でも書いたが、フランスが16年、ドイツが20年かけ国民的議論を経て決定している原子力政策を、たった2、3回の会議で決定してしまっている - 原子力委員会長期計画策定会議部会で、私はそう申しあげた。重大事に拙速な決定を迷わず行えることに対して、「あなた方は誰かに刷り込まれている」と指摘したら、タレントの住田弁護士は「失礼ね、失礼ね」と叫び、憤慨していた。

私は辞職の3ヶ月前、欧州地方自治体会議に招かれた。テーマの一つ、チェルノブイリの20周年という議題にあたり、国家を超えて地方自治体関係者達が自分の問題として真剣に討議している姿を目の当たりにした。日本なら「お国の問題」として地方は触れない事柄だ。

欧州の人々はエネルギー政策を民主主義の仕組みの中で論議している。自分たちの命と安全がかかっているからである。

国民的議論を経て、問題の所在を真剣に見つめた結果、しかし国際公約を守るため、高速増殖炉の夢の残滓として出来てしまったプルトニウムを消費し尽くすために、数年間の期限付きでプルサーマルを行う、という選択肢も当然あってよい。

その決定は自分が担当している間の2~3年だけ、問題を顕在化させず先送りにすることに腐心する官僚・役所に任せるのではなく、我々の手で考え、結論を出すべき話だ。我々の未来なのだから。

既にプルサーマルは始動している。新政権には、核燃料再処理、サイクルの問題を世界的な観点から見直し、ダム同様、国民的議論を尽くしてくれることを切に願う。


一つの記事を2回に分けた体裁をとったが、読んでいただければわかる通り、議論としての繋がりは薄い。

前回言及した福島民報紙の見出しを引用する。
「保安院の在り方 平行線
 『プルサーマル』の焦点に」

「保安院の在り方」が「プルサーマルの焦点」にはなり得ないことは明白である。

原子力発電にかかる安全管理の問題と核燃料サイクルの問題、次元の違う2つの問題を混同して、どちらかを一方の前提条件ととらえることは大きなミスリードである。そのミスリードがなぜ生じるのか、そこを掘り下げることこそがジャーナリズムではないだろうか。

コメント(0) 佐藤栄佐久

1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料会社JCOで臨界事故が起きた。
バケツでウランを扱うというお粗末な原因で複数の死者、そして周辺住民の被曝者もでた。
喧伝される「安全神話」の裏で実は何が行われているか、その実態を示す最悪の例となった。

事故当初、臨界事故の何たるかや、中性子の危険性を知らないマスコミのヘリコプターが上空で取材している様子が、ヨーロッパの人々の失笑を買っていたのを覚えている。

当時原子力安全委員会委員長代理として、現地で対応に当たったのが住田健二氏である。
事故から10年という区切り、9月24日付の朝日新聞で「1度はっきり発言しておかなければ後悔の念を残してあの世へ行くことになる」として、「原子力行政」というコラムに以下のような意見を執筆された。以下一部引用する。
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今こそ推進と規制の分離を
(中略)
推進と規制の分離は原子力行政の基本で、国際的な常識だ。原子力安全条約(1996年発効、54カ国締結)に名を連ねる主要国のほとんどが実現している。しかし、日本ではいまだに実現できていない。
 原子力発電所の安全審査ひとつをとっても、日本で審査を担う原子力安全・保安院は、推進機関である経済産業省の傘下にある。そして保安院の審査の結果を首相の諮問機関である原子力安全委員会が二重にチェックするという体制が続いている。
 原子力行政に関わる人々は推進と規制を両手に抱えながら頑張ってきたが、その結果が事故やトラブルの多発だった。正直に言って、今の体制の転換無しには、原子力利用への国民の支持を確保することはもう困難になってきている。
(中略)
推進と規制の分離を形だけのものにしないために、あわてず、決めつけず、現実を見つめて、じっくりとその第一歩を踏み出してほしい。

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上記のコラムについては友人から「貴兄の『知事抹殺』と全く同じことが書いてある」とFAXで知らせられた。

福島県は事故の前年、4つの条件付でプルサーマル実施の事前了解を決めていたが、その条件の一つ「国民の理解」がこの事故で吹っ飛んだとしてその了解をペンディングにした。

さらにJCO事故の3年後の8月29日、保安院が東電の社員からの内部告発を適切に処理せず東電に知らせた問題が明らかになり、国の原子力政策に対する不信感が一挙に高まった。福島県は勿論プルサーマルをも白紙撤回した。

その問題に対して、原子力安全委員会の松浦委員長(当時)は、安全の管理に責任を持つ当事者であるにも関わらず、「足をすくわれる思い」という気の抜けたコメントを述べたので我々の怒りに益々油を注ぐことになった。

私は10月に入り委員長に会って「足をすくわれる思いは住民が言う台詞である。安全を守る委員長が足をすくわれていては我々は如何すれば良いのか」と怒りをぶつけたのを覚えている。

住田氏はJCO事故の後退任されていたが最前線を担当された方の言葉の意味は重い。

安全委員から離れた現状でもこのようなコラムを書くことは勇気がいることと思う。しかし後の数々の問題を知っている私としては、当時「副委員長」としての立場で問題提起をしてくれていれば、より実効性のある提言となっていたのではないか、という思いは残る。今の現役の関係者にも住田氏のように考えている方々が少なくないのではないか。

石原東京都知事は私が知事をしていた当時、原子力産業会議で「東京湾に原子力発電所を作っても良い」と発言していたが、一般の都民の前、オープンの場では、そのような趣旨のことは決して言わない。

何故かは、考えるまでもない。いかに電力会社、経産省が宣伝しようとも、原子力発電所はまだまだ安全に関して未知の世界であり、一度大事故が起これば、その一帯は立ち入ることすらできない廃墟になるからである。
そしてチェルノブイリを対岸の火事としてみていた日本人もJCO臨界事故を通して危険性を肌で実感しているからである。

環境問題、CO2問題と関連して、原子力発電が環境を守る技術であるかのようにPRされているが、それは事故が起こりえない体制なくして全く説得力を持ち得ない。
住田氏の危機感は、現状が決してそうなっていない、という原子力業界内側からの叫びであろう。

先月10月31日付福島民報紙上で福島県は「原子力安全・保安院の経済産業省からの分離問題をめぐって保安院と初めて議論した。」と報じられた。
そして「安全規制機関としての独立性を確保する観点から県が分離を強く求めたのに対し、保安院側は体勢に問題は無いとの認識を示し平行線をたどった。」
直接の当事者が「問題ない」と評価している、問題点はまさにここに集約されている。

経産省が安全性にお墨付きを与えたものに、経産省配下の保安院が「問題あり」ということは不可能に近い。日本の役所、役人とはそういうものだ。

私が知事であった当時「原子力保安院ではなく推進院」と揶揄したように幾ら屁理屈を付けようと世界的な潮流でも組織の安全をつかさどる場所と推進をつかさどるところは分離するのは当然のことだ。

新聞紙面では「県は県内原発へのプルサーマル導入の是非を含め原子力政策のあり方を検証しており、保安院の分離問題が改めて大きな焦点として浮上した。」と続いていたが保安院の分離と、プルサーマルが関連づけられて報じられていることに強い違和感を覚えた。

安全管理の問題としての保安院分離と、エネルギー政策全体の中に位置づけて評価する必要のあるプルサーマルの問題は全く別に考えなければならない。

つづけて次稿に論じたい。

コメント(1) 佐藤栄佐久

2009年11月 2日

偽証罪での告発

坂本元土木部長を偽証罪で告発した。

私の中には、二人の相反する坂本君の姿が浮かんでくる。

一人は部長会議のメンバーであった坂本君である。
3役や県警本部長、教育長、7人の部長と一緒に私の話を熱心に聞いていた。

20世紀から21世紀へかけての理念、「地球時代にはばたくネットワーク社会、ともにつくろううつくしま福島」の実現に向けて常に熱く語る私の話を真面目に聞き実現に邁進していた彼である。
原発から過疎の問題まで幹部は一体になって取り組んでいた。

また、毎年2、30回機会あるごとに職員に講話をしていた。
繰り返し伝えたのは、あらゆる暴力・圧力に対して、職員が苦労していることがあったら3役はじめ皆で守る。そんな暴力はすぐ跳ね返し対応するようにという指示だった。

暴力とは即ち、ペンの暴力(検察が恐喝めいた取調べの際に使っていたブラックジャーナルなど)、拡声器などによる大きな声の暴力、政治家や上司を含む権力からの暴力・圧力、そしてもちろん本物の暴力などである。

それをフォローする意味で部長会議でも、常に邪(よこしまな)力に対しては部下を徹底して守るように指示していた。
「私の体質が部長会議の体質になり、部長の体質が職員の体質になり、県の体質が市町村や県民の体質になって行くので、心して行動するように」
熱心に聴いてくれていた坂本君の表情が目に浮かぶ。


もう一人の坂本君は、3年前に公判廷で突然立ち現れた。

「真実を話します」と宣言した直後に、事実ありもしない事を話している彼である。

検事から新聞を見せられて、坂本君が天の声があった旨証言したと知らされた際、事実に反する証言を行うとは、如何に過酷な取調べを受けているのかと、胸が締め付けられる思いだった。

法廷で、本人の口から同様の証言を聞かされたときは余りのショックで「真実、真実!」と不規則発言をしてしまう。裁判所とはこんないい加減なことが罷り通るところかとあきれ果てた。

その時の彼の姿は部長会議のあの真面目な、私のイメージにある彼とは全く別の人間であった。

法廷では、弁護団は坂本君が二千六百万円の机貯金があり、小分けに何度も銀行のATMで出し入れしていた事実を指摘した。
これは弁護側ではなく、検察側がつかんでいた事実である。

どうして、一公務員がそんな大金を手元にもっていたのか、まさに、談合事件の真相を調査している検察なら、私が検事なら、当然看過すべき事柄ではなく、厳しくその内実を取り調べ、ことによっては当然、訴追する必要があるだろう。

裁判長が厳しくその金の内容を本人に追求すると、検事が居てもたってもいられなくなったのか突然口を挟み始めた姿が印象に残っている。

裁判長は、自分が証人に直接聞いているのに、横からそれをサポートするのは一体どうなのか、と検事をたしなめていた。

検事は何故、法廷で「かばう」、追求から「まもる」かのような行動にでるのか。
金の出所については明確になっていないにも拘らず。
そこには、検察がつかみ、かつ明らかにされていない事実があることが浮き彫りにされてはいないか。

坂本君は起訴されていない。

もう一度確認するが、私が一銭の利益も受け取っていないことを考えればことの異常性は明白だ。

控訴審判決が出たことで、今回の告発の意味はよりはっきりしたように思う。

利益の供与はなかったという事実認定の上に、坂本君が言ったというから言ったんだ、という論法で、全く立証責任を果たしていない薄弱な証言のみを使って、有罪が成立しているのだ。
こんなことゆるされるなら「誰でも容易に犯罪者に仕立て上げられてしまう」

これは検察が創った犯罪である。

私は二人目の坂本君を恨んではいない。法廷では、私が「非常に行政に対して厳格な姿勢で臨んでいた、個別業者の名前など(本件を除き)一度も聞いたことが無い」旨の証言をしている。自分の偽証の脆弱性はもとより十分承知だろう。

むしろ、検察の利益誘導によってありもしない証言をした結果、今回の告発含め、未だにその証言に縛り付けられざるを得ないことを、不憫に思う。

本稿を書いている時、弁護士の先生から、28日に福島地検が偽証罪等の告発状を受理し東京地検に移送したという連絡があった。

「不正義が行われているかもしれない」証拠を目の当たりにしながら、それを追求せず、ありもしない虚構を作り上げた当事者、東京地検がどのような処理を行うのか、今は見守りたい。

コメント(4) 佐藤栄佐久