2010年2月アーカイブ

少し時間が経ってしまいましたが、昨年10月に郡山で行われた「知事抹殺」出版記念懇親会の講演音声をアップいたしました。
・下記のリンクをクリックいただくとWindows Media Playerがたちあがります。

★手嶋龍一氏による講演
※申し訳ありません冒頭が少しきれてしまっております。

★宗像主任弁護士による講演
※本講演は二審判決前に行われたものです。
 高裁判決において検察の問題とした土地の取引額は妥当であり、賄賂額は0円であると認定されています。



手嶋氏の激励と、宗像弁護士の熱のこもった意気込みをぜひお聞きください。
コメント(4) スタッフ

■システムの関係でコメントが送れない現象が断続的に続いております。
原因を調査中です。しばらくご迷惑をおかけいたします。申し訳ありません。また皆様の多大なご支援に感謝いたします。

【承前】

今回はネットを中心として、いつになく検察への批判が強いようで、それに対する反論としてなのか、テレビなどには盛んに検察のOBの方々が出演し、検察擁護の論陣を張っています。

論陣といっても多くはワイドショーなどでイメージアップを図る体の、軽いものがほとんどですが、その中に検察の体質をあらわすものとして看過できない発言がありました。

元東京地検特捜部長の熊崎勝彦氏の言葉です。

「白を黒ということがあってはいけないが、
 黒を決して逃すことがあってはいけない」

これは、大変大きな発言です。
「黒を決して逃すことがあってはいけない」という悪人を探す「意志」はともすれば正義感の表れのようにも聞こえますが、とても危険な考え方です。

熊崎氏は「治安の維持のため」と理由を述べていましたが、まさに人々の不安と不満に起因する象徴、はけ口としての「犯人探し」への欲求が強い場合、さらには私の事件の際に一部報じられたような検察官僚としての出世欲と結びついた場合、なんとしても犯人を挙げなければならないという「意志」は、罪無き人を無理やり犯人に仕立て上げることになります。

また長銀事件や私の事件のように犯罪自体が無い空っぽの場所に無理やり犯罪を作り上げ、本来平穏に暮らしているはずの無辜の人々に罪人というレッテルをはり、社会から抹殺することになります。

人間は無謬ではありえないので、熊崎氏の言葉の前半と後半は、現実的には相容れない考え方です。黒を須く捕らえようと思えば、その中に白が入ってしまうことは不可避だからです。

「黒を決して逃すことがあってはいけない」は近代司法の考え方を否定する言葉といえます。

「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」
これは熊崎氏の言葉と真っ向から対立する重要な概念です。

推定無罪の原則は、フランス革命までさかのぼり、西欧が数々の流血の歴史を経て確立しました。

なぜ血を流してまで守らなければならないのか、この言葉がどれほど大切かを噛みしめるのには、無実の菅家さんが失った人生の大切な年月を思えば容易なことと思われます。
また菅家さんに決して謝罪をしなかった元検察官はその「正義」の無責任さを体現しているのではないでしょうか。

罪のない人がなぜ自白するのか。そこで武器として使われるのが、相手の人格を否定し、周りの者を生活を脅かすことをほのめかす、マフィアまがいの精神的拷問です。

熊崎勝彦氏の言に見え隠れしている、黒を逃がさないために、正義のためには何をしても許されるという、誤った信念。拷問と国民の負託を受けた国会議員の逮捕と失脚を狙った印象操作、そこにあるのは、人権と民主主義の否定です。

私はある取材に、検察官が列を成してあらかじめ準備されたカメラの前を示威的に通るプロパガンダを、ナチの青年将校になぞらえてお話しました。

ナチにも自分たちなりの正義はあった。
私は自分の身に起こったこと、全くない事実をあらゆる手段を使って組み立てていく、「正義の暴走」が今回もまた起こっているのではないか、という強い危機感をもってあえて言及しました。

小沢氏が、石川氏が、またその秘書が何をしたか、していないのか、それはわかりません。しかし子供や家族、自分の会社や仲間への思いを人質にとりながら、供述を促すという精神的拷問は決して許されるべきではない。

何の罪もない者が、事情聴取を受けた後、倒れ、あるいは少なからず自殺を選ぶ現状は異常という他はありません。断じて許すことのできない、人権への罪と言っても過言ではないでしょう。

「●●は死体3個だから特捜部長に、××は3個の死体に植物人間を1個つけたから最高検検事に大出世というわけだ」
という落首めいた書き込みをネットで見かけました。

ここで数えられている人には私の極親しい知り合いも含まれています。何気なく読み、思わず目をそむけました。
因果関係はさておき、何が起こったか経験したものには理解できる話です。

「我々は金も人も時間もたっぷりあるんだ」これも検事の言葉です。

列をなす検事、事務官、深夜までの取り調べ、そして数百もの段ボール箱とその運搬。
ほぼ白しかないとわかっている中に黒を探す、「黒がいないことは許されない」ことだから、延々と探し続ける、考えるまでもなく、これを賄うのは全て税金です。

人権への脅威とともに、正義の名の下、何物にも監視されず、湯水のごとく、国民の税金を使う。

「○○VS××」、「△△逮捕、起訴」といった、図式、報道に惑わされず、「正義」の名の下に何が行われているのか、それを冷静に、客観的に見たときに、事の異常性に気付かない人はいないのではないでしょうか。

ただ、私が危機感をもっているのは検察に対してだけではありません。

小沢氏は自らの信念を実現すべく十数年の雄伏し、権力を目指してきました。

60年続いた自民党や自らの生活の「痛み」に不満を持つ国民の気持ちに潜むところにアピールし民主党は政権を手に入れました。

小沢氏の存在がなければ民主党の大勝はなかったでしょう。

ようやく手に入れた数の力を頼み、反対意見を封殺しながら、もはや自分たちに投票した国民などいなかったかのように約束を反故にする、政権をとってからの何かに取り憑かれたような行動は、折角「自分たちの手で政権を作ったのだ、作ることができるのだ」という国民の政治に対する希望、政治参加に対する自覚を打ち壊す異常なものだと感じていました。

あるいは官僚・検察を一体に、打ち砕く対象としたがゆえの拙速な行動なのかもしれません。

私は今、所詮政治家は金に汚いものだ、というステレオタイプ、国民に政治に対する虚無感を固定させないためにも、今自分の疑いを晴らすべく戦っています。

現在の民主党=小沢氏の手法は、やはり政治家は約束を守らないものだ、というもうひとつのステレオタイプを固定化することでせっかく取り戻しかけた政治への希望が無に帰することになるでしょう。

検察の手法、民主党=小沢氏の手法、そして二つの権力の対立の結果、国会でも危急に解決すべき問題がまともに論じられない。
国民は一体どこにいるのか。現在の状況は日本全体にとって不幸なことです。

人権と民主主義を軽視するのは歴史を俯瞰すれば全体主義の萌芽といえます。

私は逮捕される3ヶ月前、ストラスブールの欧州地方自治体会議の総会に出席し講演しました。ストラスブールは百余年の間に仏・独・仏・独・仏と5回も国が変わった悲劇の町です。今でも地方自治体が民主主義と人権を守るために血を流す覚悟で闘っている現場に立ち会ってきて、それを知事会で報告しました。

日本は血を流して民主主義・人権を勝ち取ったことがありません。
他者に対する人権への脅威がそのまま自分の人権への脅威に直結していることに気付かない人も多いように感じます。大手マスコミを通じて流される偽装された大勢の意見に疑問をもち、その中から真実を拾っていくことが大切です。

全体主義の対立概念として、民主主義の観点から事件の真相、背景を見極め、その上で日本の真の民主主義・人権の確立のために私自身が血を流す覚悟で闘っていくことこそ重要と考えています。

コメント(6) 佐藤栄佐久

小沢氏の秘書、石川代議士の逮捕を受けて、私の事件に関しても多くのメディアで言及され、また直接取材も多数受けました。

もとより私は、金丸- 経世会体制には楯突き、真っ向から対立する形で知事になりましたので、その申し子たる小沢氏と特に親しくしていたわけでもありません。ましてや事件の背景に実際は何があるか、もしくはないのかは私は知る由もありません。

ただ、今回の事件で報じられている、(もしくは大手マスコミではあまり報じられないが、各所ブログなどで取り上げられていることから見え隠れする)のは、検察の手法は私が受けた経験と重なる部分が非常に多いということです。

私が逮捕された時の幹部検事が立場は変われど、また今回の逮捕劇に関係しているとのことで、文字通りひと事ではありません。

石川議員は1月16日に聴取に応じる約束していたにもかかわらず15日に突然逮捕されたとのことです。

私の場合は、自分は一切、疑惑として取りざたされていたことは行っていないので、まさか逮捕などされるとは思っていなかったということもありますが、ほとんど弁護士と相談する暇もなく突然呼び出され、逮捕されました。

毎日新聞に「今日逮捕へ」との予測記事が載った日の午後、家に検察から電話があり、地元のホテルの駐車場に呼び出されました。

それまでは一切、聴取なども受けていなかったので、参考人聴取だと思ってホテルに宿泊する準備をし、弁護士に「これから行ってきます」と電話で連絡したのですが、東京にそのまま自動車で移送され有無を言わさず逮捕されたのです。

「人質司法」という言葉があります。
逮捕・拘留は、逃亡、証拠隠滅の恐れがあるため、身柄を拘束することが許されるのですが、実際は弁護士という専門家の助言と情報を制限し、あらゆる手段を駆使して自分たちが組み立てた通りの供述をとるために利用されます。

突然の逮捕は、供述をコントロールするための第一歩なのでしょう。

真実を貫こうとしても、検察官の意に沿う供述をするまでは、決して保釈されません。弁護士との接見は平日に30分ほどあるのみで、検察官は拘置中、土日なく、早朝から夜半まで取調べを行います。検事が思う通りの供述が得られないと、娘が高校生になるまでここから出さない、県議、支持者を皆逮捕する、等と恫喝し、怒鳴り、机をたたき、背広を床にたたきつけたことを、弟は法廷で証言しました。

「これでは誰でも犯罪者にされてしまう」と。

その法廷で検事が証人の証言中に突然、派手に机を叩き、傍聴人も裁判官もその場にいた全ての人が肝を冷やしたことは先述のとおりですが、法廷内ですら相手を威圧する行動をとるのだから、これが密室だったらどれほどか、想像に難くありません。

私との接見の際、弁護士が「弟さんは判断能力が失われてきている」と伝えられたのを覚えています。連日、長時間の取り調べはそれ自体、精神と肉体を痛めつける物ですが、洗脳に近い効果があることを私自身も感じました。

任意の事情聴取も、密室で長時間拘束し、脅迫的、高圧的に供述を促す点では同じです。

「週刊朝日」で二週に渡り掲載されている記事によれば、石川議員に対しては、小さい子供がいる女性秘書は深夜まで事情聴取に呼ばれたら困るんじゃないか、と脅しながら供述を促したそうです。

そして、実際に「押収したものを返却する」名目で問題の事件の際にはまだいなかった女性秘書を呼び出して、突然被疑者として事情聴取をはじめ、子供保育園に迎えに行かなくてはならないと何度も訴えても、何時間も外部との連絡さえ許さず、深夜まで解放しなかったのだそうです。

時代劇の中にしか存在しないような卑劣な悪役のやり口です。
この記事が本当なら、まさに、「だまし討ち」であり、「監禁」であり、無辜の国民の生活と安全を脅かす不正義と言わざるを得ません。

私の事件でも、13時から参考人聴取が開始され、19時頃、突然「被疑者になった」旨伝えられて被疑者として調書をとられた方がいます。
これは違法だそうです。
弁護団が公判で指摘する予定だったところ、検察が証人を取り下げてきて、もめたことを覚えています。

他にも私の事件に関わる事情聴取のエピソードを幾つか挙げてみます。

ある会社社長はこう言われました。
「お前らが東京地検に喧嘩を売るなら、こちらも考えがある。
お前らみたいのはどうにでもなるんだぞ。お前には7年くらい入ってもらう。
出てきた頃は会社もなくなっているし家族もばらばらになり浦島太郎のようになるぞ。
そうならないためにも真実を話せ。」

知らない、というと
「お前の立場だったら知らないはずは無い。知らないのなら想像して言ってみろ
そして想像して言ったとしたら、どうなっていたのでしょうか。

私を支持してくれていた会社の経営者たちは、多数「会社をつぶすぞ、すぐにでもつぶせるのだ」という検事の言葉を聞いています。

経営をした方ならわかると思いますが、「お前の会社をつぶす」と言われたら、社員たちが路頭に迷わないように、何でも言うがままにならざるを得ないでしょう。国家権力であるだけに、暴力団より強力な脅しになるはずです。

また、ある後援会関係者は以下のようなやり取りをしたそうです。
「あなたが来ない場合は200人よびますがどうですか」
と電話で呼び出され

「いろんな事分かってるだろう、金のこと」
―― 一切知らない
「20年間支えてたんだから。わかってるんだろう 佐藤栄佐久はうそつきで…(罵詈雑言)…」
―― 栄佐久はすばらしいから20年間も支持してきたのだ
「とぼけるな。ふざけるなよ。 一つでもいいから(具体的に)悪いことをいえ」
―― しらない
「栄佐久の 悪いことを知ってるような人を一人くらい言え。しらないことでもいえ
「知らないこと知ってると言ってもこの部屋の中だけで外には出ない」
―― もし栄佐久がそういう人間であるなら県民を裏切ることになる
「『もし』だけ削除して調書作成していいか」

最後のやり取りは、いかにして検察官が供述を曲げて調書を作成するか明確に表しています。
この後援会の方はやり取りを詳細にメモに残していました。

最後に、
「あなたは私を人間としてみていない。
野良猫か野良犬としかあつかっていない。
人間として扱ったのか、野良猫として扱ったかったのかはっきり言ってくれ」
と言って最終電車で帰ってきたそうです。

「嘘でもいいから言え」「作ってでも言え」「想像でもいいから言え」「想像できないなら教えてやる」

検事から全く同じようなこの類の言葉を言われたということは、2,3人に留まらず身内含め私の事件で聴取を受けた多くの人から聞きました。日常的にこのような手法で供述を積み上げていくのでしょう。

妹は取り調べ中に倒れ、一時意識不明になりました。検察庁までタクシーで迎えをよび、病院の「救急救命センター」に入りました。

命の危険がありました。
通常ならその場で救急車を呼ぶ必要がある状況で、検察官は決してそれをしなかった。

私は被告人尋問で、その後妹から聞いた話を「人権を守るべき最後の砦の検察が人命までおろそかにしている」と申し上げました。

苦痛を与えて、強制的に自白させる拷問は古くから犯人探しの手段として用いられました。
近代では拷問は否定され、先進国では明確に法律で禁じられています。

何故かといえば、拷問、苦痛から逃れたいという一心から絞り出した供述は虚偽である可能性が高く、真実を追求するに当たっては、邪魔にしかならないからです。

中世の魔女狩りを見て分かるとおり、とでも書くことができればいいのですが現実は前近代的な、相手の人格を破壊することによって、望む供述を得ようとする精神的拷問は前述の通り今、起こっています。

一段落して取り調べを受けた皆さんの声を聞くにつけ、早く火を消してよかった、と本当に思います。

そのような人権を無視した取調べの結果、私の場合、一度も会ったことがないゼネコン幹部による、私が彼のことを「門さん、門さん」と呼んでいた、などという、「真に迫った」虚偽の話が生まれるのです。

そのゼネコン幹部とは法廷で「初めて」会うことを楽しみにしていたのですが、検察側は証人申請を何故か突然取り下げてしまいました。

※長くなりましたので続きを次回に書かせていただきます。

コメント(11) 佐藤栄佐久

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