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【承前】

今回はネットを中心として、いつになく検察への批判が強いようで、それに対する反論としてなのか、テレビなどには盛んに検察のOBの方々が出演し、検察擁護の論陣を張っています。

論陣といっても多くはワイドショーなどでイメージアップを図る体の、軽いものがほとんどですが、その中に検察の体質をあらわすものとして看過できない発言がありました。

元東京地検特捜部長の熊崎勝彦氏の言葉です。

「白を黒ということがあってはいけないが、
 黒を決して逃すことがあってはいけない」

これは、大変大きな発言です。
「黒を決して逃すことがあってはいけない」という悪人を探す「意志」はともすれば正義感の表れのようにも聞こえますが、とても危険な考え方です。

熊崎氏は「治安の維持のため」と理由を述べていましたが、まさに人々の不安と不満に起因する象徴、はけ口としての「犯人探し」への欲求が強い場合、さらには私の事件の際に一部報じられたような検察官僚としての出世欲と結びついた場合、なんとしても犯人を挙げなければならないという「意志」は、罪無き人を無理やり犯人に仕立て上げることになります。

また長銀事件や私の事件のように犯罪自体が無い空っぽの場所に無理やり犯罪を作り上げ、本来平穏に暮らしているはずの無辜の人々に罪人というレッテルをはり、社会から抹殺することになります。

人間は無謬ではありえないので、熊崎氏の言葉の前半と後半は、現実的には相容れない考え方です。黒を須く捕らえようと思えば、その中に白が入ってしまうことは不可避だからです。

「黒を決して逃すことがあってはいけない」は近代司法の考え方を否定する言葉といえます。

「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」
これは熊崎氏の言葉と真っ向から対立する重要な概念です。

推定無罪の原則は、フランス革命までさかのぼり、西欧が数々の流血の歴史を経て確立しました。

なぜ血を流してまで守らなければならないのか、この言葉がどれほど大切かを噛みしめるのには、無実の菅家さんが失った人生の大切な年月を思えば容易なことと思われます。
また菅家さんに決して謝罪をしなかった元検察官はその「正義」の無責任さを体現しているのではないでしょうか。

罪のない人がなぜ自白するのか。そこで武器として使われるのが、相手の人格を否定し、周りの者を生活を脅かすことをほのめかす、マフィアまがいの精神的拷問です。

熊崎勝彦氏の言に見え隠れしている、黒を逃がさないために、正義のためには何をしても許されるという、誤った信念。拷問と国民の負託を受けた国会議員の逮捕と失脚を狙った印象操作、そこにあるのは、人権と民主主義の否定です。

私はある取材に、検察官が列を成してあらかじめ準備されたカメラの前を示威的に通るプロパガンダを、ナチの青年将校になぞらえてお話しました。

ナチにも自分たちなりの正義はあった。
私は自分の身に起こったこと、全くない事実をあらゆる手段を使って組み立てていく、「正義の暴走」が今回もまた起こっているのではないか、という強い危機感をもってあえて言及しました。

小沢氏が、石川氏が、またその秘書が何をしたか、していないのか、それはわかりません。しかし子供や家族、自分の会社や仲間への思いを人質にとりながら、供述を促すという精神的拷問は決して許されるべきではない。

何の罪もない者が、事情聴取を受けた後、倒れ、あるいは少なからず自殺を選ぶ現状は異常という他はありません。断じて許すことのできない、人権への罪と言っても過言ではないでしょう。

「●●は死体3個だから特捜部長に、××は3個の死体に植物人間を1個つけたから最高検検事に大出世というわけだ」
という落首めいた書き込みをネットで見かけました。

ここで数えられている人には私の極親しい知り合いも含まれています。何気なく読み、思わず目をそむけました。
因果関係はさておき、何が起こったか経験したものには理解できる話です。

「我々は金も人も時間もたっぷりあるんだ」これも検事の言葉です。

列をなす検事、事務官、深夜までの取り調べ、そして数百もの段ボール箱とその運搬。
ほぼ白しかないとわかっている中に黒を探す、「黒がいないことは許されない」ことだから、延々と探し続ける、考えるまでもなく、これを賄うのは全て税金です。

人権への脅威とともに、正義の名の下、何物にも監視されず、湯水のごとく、国民の税金を使う。

「○○VS××」、「△△逮捕、起訴」といった、図式、報道に惑わされず、「正義」の名の下に何が行われているのか、それを冷静に、客観的に見たときに、事の異常性に気付かない人はいないのではないでしょうか。

ただ、私が危機感をもっているのは検察に対してだけではありません。

小沢氏は自らの信念を実現すべく十数年の雄伏し、権力を目指してきました。

60年続いた自民党や自らの生活の「痛み」に不満を持つ国民の気持ちに潜むところにアピールし民主党は政権を手に入れました。

小沢氏の存在がなければ民主党の大勝はなかったでしょう。

ようやく手に入れた数の力を頼み、反対意見を封殺しながら、もはや自分たちに投票した国民などいなかったかのように約束を反故にする、政権をとってからの何かに取り憑かれたような行動は、折角「自分たちの手で政権を作ったのだ、作ることができるのだ」という国民の政治に対する希望、政治参加に対する自覚を打ち壊す異常なものだと感じていました。

あるいは官僚・検察を一体に、打ち砕く対象としたがゆえの拙速な行動なのかもしれません。

私は今、所詮政治家は金に汚いものだ、というステレオタイプ、国民に政治に対する虚無感を固定させないためにも、今自分の疑いを晴らすべく戦っています。

現在の民主党=小沢氏の手法は、やはり政治家は約束を守らないものだ、というもうひとつのステレオタイプを固定化することでせっかく取り戻しかけた政治への希望が無に帰することになるでしょう。

検察の手法、民主党=小沢氏の手法、そして二つの権力の対立の結果、国会でも危急に解決すべき問題がまともに論じられない。
国民は一体どこにいるのか。現在の状況は日本全体にとって不幸なことです。

人権と民主主義を軽視するのは歴史を俯瞰すれば全体主義の萌芽といえます。

私は逮捕される3ヶ月前、ストラスブールの欧州地方自治体会議の総会に出席し講演しました。ストラスブールは百余年の間に仏・独・仏・独・仏と5回も国が変わった悲劇の町です。今でも地方自治体が民主主義と人権を守るために血を流す覚悟で闘っている現場に立ち会ってきて、それを知事会で報告しました。

日本は血を流して民主主義・人権を勝ち取ったことがありません。
他者に対する人権への脅威がそのまま自分の人権への脅威に直結していることに気付かない人も多いように感じます。大手マスコミを通じて流される偽装された大勢の意見に疑問をもち、その中から真実を拾っていくことが大切です。

全体主義の対立概念として、民主主義の観点から事件の真相、背景を見極め、その上で日本の真の民主主義・人権の確立のために私自身が血を流す覚悟で闘っていくことこそ重要と考えています。

コメント(6) 佐藤栄佐久

■コメント

小沢一郎氏と元秘書3人に対する検察マスメディア一体となった理不尽な攻撃に意味があるとすれば、それは佐藤栄佐久氏へも長銀事件の際にもその他幾つものケースに関しても検察マスメディアが一体となって暴走していたということを白日の下にさらしたことにあります。
特捜部は告訴に値します。被害者の共同告訴がおきてほしいです。
佐藤栄佐久先生の政界への復権を願って止みません。

佐藤栄佐久 様

突然のコメントをお許し下さい。
貴方様のブログ『国民はどこにいるのか。国民は誰が護るのか。【1】』『国民はどこにいるのか。国民は誰が護るのか。【2】』を読まさせて頂きコメントを書き込んでおります。
また早速、アマゾンにて『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』を注文しました。

ブログの文面の内容は衝撃的でした。人間の極限でまで追い詰める…騙し…脅し…想像の調書などを証拠に人を起訴する。地検特捜部は、戦前の特高警察を見てるような感じがします。
本当に、いつ、どこかで、佐藤様と同じような事になるか僕は不安になります。

やはり検察は大きな裁量権がある事を国民は疑いも無く認知している事を疑問を感じるべきですね。捜査権、逮捕権、公訴権があるし何週間も容疑者を拘束できる。この原則を一度考えた方がいいのではないですか!?司法の独立性(逮捕状付与、拘留決定)も疑問が感じれますね。
容疑者が逮捕拘束されている間、マスコミも検察リーク報道で有罪報道の爆弾をバンバン落としていく。本人は、拘束されているので自分の弁護が出来ない。すべからずテレビ、新聞をチョット見るだけで、『有罪』だと思ってしまう。
裁判委員制度を導入(裁判にも市民感覚を!!)してもこんな現状では疑問??ですね。

日本人の感性は、逮捕される事が悪人→世間から抹殺される!!
この図式を変更しないで、人権だとか論じれないのではないでしょうか!?
裁判にて判決が出るまでは、何人も『推定無罪』の大原則があり確定するまでの人権は守られるべきですよね。

欧米各国にはその人権を勝ち取る為に大きな犠牲(血を流す事)をしてきました。

どうも日本では、かの戦争敗戦後は大きな犠牲を出したので、戦争に対する嫌悪感や拒否感についてありますが、個人個人の人権擁護の感性は気うすのように感じられます。

また時代時代の価値観は一定しません。常に変化していくものだと考えます。
変化を好まない国民性か他人事に関心をしないのか(野次馬的な事には関心があるけど!?)
現状認識して、何を変えていったらいいのか、よく考え行動せなければと思います。

佐藤様のブログを読まさせて頂き、私の心の中でも何か変化していく事が感じられる事に感謝致します。


検察に関しては様々な方面から疑惑の目が向けられているようです。
今回の小沢事件で白日に晒されようとしています。
http://www.youtube.com/watch?v=aMgVmHuK2Sk

ヤメ検と呼ばれる検察OBの発言は推測による「推定有罪」発言が多いですね。
2月7日放送の日テレ「バンキシャ」の元特捜部K氏は、小沢氏不起訴の報道を受けて
「99.9%有罪だ」「検察が証拠を握っていることは間違いない」と
かなり強い口調で断罪していました。

最近よく見かける元特捜部M氏も「身内のカネがグルッと回っただけの話じゃない」と
根拠もなく発言したり、情報ライブ・ミヤネ屋というテレビ番組でも、T弁護士が
水谷建設の証言を報道した際に、
「水谷側の証言は、証言することに何のメリットもないので信憑性がある」と
推定有罪の世論を助長する発言をしています。

特に特捜部OBの方たちは不起訴となる前から「充分起訴できる」と豪語していました。
通常の感覚からいえば、証拠も証言も裏付けもないのに起訴できるはずはないでしょう。

彼らヤメ検の方たちも、今回の特捜部のようなやり方をしていたのでは?という疑念さえ
抱きます。
それと同様に、あたかも有罪であると断定するマスコミの報道姿勢も大問題です。

検察審査会や、裁判員制度が始まっても検察とマスコミが同一方向を向いて
世論誘導を続ける限り、この制度は逆に素人が
関わるだけにより危険となる可能性もあります。

これは政治家や政党関係なく、「思い込み捜査」「逮捕ありきの捜査」「推定有罪」を
作り上げる検察の捜査手法を世論が後押ししては絶対いけないということです。

検察審査会に向けて、検察はますます世論誘導をしてくる可能性も十分あります。
本当にこのような捜査が「正義」であり「公平・公正」なのか
検察組織に問題がないかを検証することが大事だと言えます。

うかつにもブログのあることを知りませんでした。
先月「知事抹殺」を読み、あらためてくやしさがこみあげてきました。
先生の名誉回復のためにも、御著書の購読を勧めてまいりたいと思います。
ブログ今後も読ませていただきます。

すばらしい著作「知事抹殺」を読まさせていただきました。

愛するふるさとのため、天下国家のため真に活動された政治家が抹殺されることは断じて赦されるものではありません。

私もツイッターという言論手段で堂々と本名で意見を情報発信いたしております。

佐藤栄佐久様の完全勝利を心より祈念いたしております。