2009年10月15日

控訴審判決を受けて

土地を不当に高く買わせる事で実際の価格との差額分1億7千万円余りの利益供与を受けた、それが収賄だ、というのが検察にとって、今回の事件だったはずだ。

一審で1億7千万円のうち、1億円分は認められなかった。
それでも「差額の利益」は認定された。

二審では残り7千万円余りも認定されなかった。
検察が恣意的に現実離れした基準を使って査定し、無理やりひねり出した差額の根拠を一切認定しなかったのだ。

8億7千万円の価値がある土地を8億7千万円で売却した。後に残ったのはそういうことだ。

常識的に読むなら、利益の供与はなかった。
追徴金のない収賄事件など、前代未聞だという。

土地取引によって私が不当な利益を得たという、検察の主張はほぼ全て斥けられ、空っぽになったといってもいい。

「換金の利益」という言葉が残った。
「土地を売ってお金にすること」ということだろう。
そこに含まれる事実は、通常の商取引以外の何物でもないではないか。

記者からも、これが罪の要件になるのか、という質問があった。私も理解できない。

はじめから、「換金の利益」などを根拠に起訴などすれば、検察は笑いものになっていただろう。こんな収賄が成立するのは、人も行かないような利用価値のない荒野や換価できない土地を、売買の対象とした時くらいとのことだ。

当該の土地は、まさに市が発展し、どんどん賑やかになっていく、そのフロンティアにある土地だ。「売れない土地を買ってやる」という類の土地ではないことは地元の人間なら理解できない人はいない。

非常におかしな話だが、私は今ここまでの文を、ジャーナリスティックな視点で書いている。そうならざるを得ないからだ。
土地取引に関する話、土地の売買があった、という事実さえ雑誌に取り上げられた時点で初めて知ったのだ。ほとんどの知識は法廷での他の方の証言でしか得られていない。

三東スーツは父の創業した会社だ。なくなれば寂しくは思う。しかし、潰れるならそれでいい。そう思っていた。正直に言えば、原子力をはじめとする問題をかかえ、県民のまさに命を守るために闘う中でそんなことに関わる暇などあるはずもなかった。

今回高等裁判所は、正当な判断をしたのかといえば、決してそうではない。
「換金の利益」
そのような、実態としてはもはや蝉の抜殻にもならないような言葉に、有罪という実体を与えるために、私が「天の声」を発したという検察側の主張をくっつけた常人の理解からは程遠い判決だ。

仔細に反証した弁護側の意見はほぼ一顧だにされなかった。
むろん反証するまでもなく、私が特定の業者に便宜を図るなどということがないことは、県職員はじめ周りにいたものなら疑いようもなくわかっているはずだ。


「整合性」といった言葉を裁判長が発するたびに、私は検事を指差しつつ、苦笑せざるを得なかった。「君たちが作り上げたのだから当然だ」

調書に整合性があるのは当たり前だ。
検察がまずがっちりストーリーを作り上げ、それに当てはめるように調書は取られていったからだ。事実ではないストーリーに整合性を持たせるために、どれほど無理な取調べや、拷問に近い行為が行われていたか。その一端は法廷での証言にも、より象徴的には、一審の法廷で大きな破裂音とともに机を殴りつけ、裁判長の度肝を抜いた検事の行動にも明確に現れている。

「換金の利益」という、空っぽの言葉を使ってようやく有罪にせざるを得ない虚構の事件に、どれほどの無益な犠牲が払われたのか、それこそが本事件のそして司法の問題点だ。
そこに思いをいたさず、弁護団が立証した証拠の吟味を行わず、用意された虚構のストーリーのレールに乗る裁判所のあり方には我慢のしようもない憤りを感じる。

形として有罪にするために、真実を追究するというあるべき態度を放棄した、不誠実な判断といえる。

法廷を出た直後、ある記者が私に走りより「実質無罪ですね」といってきた。
「いや、有罪だ」そう私は答えた。
実質無罪という言葉にどれほどの意味があるのか、理解しかねる。ペナルティの観点からみれば、一審も「実質無罪」と言ってもいい。実際、そう書いたメディアもひとつふたつあった。

控訴審判決を受け、地元紙が号外を出した。
見出しは、黒々と大きく「前知事 二審も有罪」である。
これが事実だ。
長い年月を経て裁判所の判断や事件の内容の枝葉が全て落ちた後、この見出し1行のみが事実となる。

到底是認することはできない。収賄はなかった、利益の供与はなかった、そう言っているにも等しい判断をしながら、有罪とは全く承服できない。
もとより特定の業者の名前を私が挙げることなど、決して有り得ない事だ。

私が、知事であった時、私の指示に従い、不当な圧力を跳ね除け、襟を正して仕事をしていた県庁の多くの職員や、私の姿勢に共鳴し、支援して下さった多くの方々の名誉のためにも、くどいようだが、もう一度はっきりと言う。私が関わったという事実は一切ないのだ。

控訴審判決は、前述のとおり一審に比べれば大きな前進といえる。
しかし、是認することはできない。

薄皮を一枚々々はがすように、徐々に真実に近づいている、そう宗像先生はおっしゃった。
弁護団の先生方の一滴の水も漏らさぬ、緻密な反証と御尽力がなければここまで到達することもできなかったであろう。

私は、まだ日本の司法を信じている。過程の判断は間違うこともあろう。それは批判されるべきだ。だが判断の誤りが正されるしくみはしっかり持っている。それを信じている。

あと一歩で、真実に到達する。ここで立ち止まることは出来ない。

コメント(8) 佐藤栄佐久

■コメント

ご著書拝読しました。二審の判決は事実上無罪なのに、国策捜査なので執行猶予付き有罪を維持したという線が濃厚なものだと思いました。検察や裁判官にもメンツがあるのだと思います。

県民の一人として、建設業に携わる者として、自分は佐藤栄佐久前知事の政府に対する毅然たる態度、その県政に尊敬しておりました。今後も、不当なる検察側と闘ってゆく事が、県民一人一人に勇気を与える事であると存じます。どうか、頑張ってください。

「知事抹殺」を読みました。
何か大きな力を感じました。なんだか日本もアメリカのようになっていくんですかね?
もっと悪いことをしている人はいると思います。
どうか体を大事にして 頑張ってください。

戦前のテイジン事件や田中角栄氏のロッキー度事件や松川事件など、検察には何か大きな問題があるようです、はっきりいってあるでしょう。
 普通の人は検察を信頼しており、逆にその影に隠れて、何かをしているということでしょうか。
 司法界、裁判所という世界の談合判決でしょう。聞けば民事なども弁護士、裁判官の貸し借りの世界のようです。 卑怯です、彼らは。
 角栄氏の無念はいかほどだッたでしょうか。
 お体を大切にしてください。

一般市民が見ても分かる冤罪です。
今まで県民の為に粉骨砕身やってこられたのは県民が一番分かっています。

有罪は有罪です。
しかしそれはここまでどの政治家もできなかった
いけないことは権力に関係なくいけないんだという強い意思を貫き通した証です。
今一番いなければいけない国民にとって真の強い政治家です。

私たち福島県民はこの18年を信じています。
佐藤栄佐久さんを心から信じています。
どうかその強い姿勢で検察をも倒し
例えどんな形でも正義を晴らして
また県民の為に帰ってこられるのを待っております。

どうか負けないで下さい。

懇親会に出席した父から栄佐久さんのブログの話を聞き、探して探してようやく辿り着きました。父も母も涙を浮かべて何度も読み返していました。家族で応援しています。冤罪との戦いは続きますが、どうぞお体に気をつけてお過ごしください。お二人の潔白が証明され、晴れて返り咲かれる日が来るのを信じて、応援し続けます。

これは冤罪ではない。冤罪とは誤って罪びとにされてしまった場合をいうのではないか?
しかし、佐藤栄佐久前知事の場合東京地検特捜部という犯罪組織に罪をでっちあげられたのではないのか?
そうであれば冤罪という言葉を使うのは間違っている。冤罪という言葉を使えば東京地検特捜部という犯罪集団の犯罪行為を正当化することになってしまう。
これは東京地検特捜部の犯罪行為であると言うべきではないか?

初めてのコメントです。

汚職事件当時、私もメディアに洗脳された一人でした。
なので、『なにをやってんだ・・・』なんて失礼なことを思っておりましたが
後になって妙な点が次第にいくつも浮き彫りになり、事の背景に原発問題が絡んでいることも分かってきました。

幸いにも、最近はテレビ、新聞などのメディアより、インターネットが発達し、さらにはソーシャルネットワーク化が進んだこともあって、現地にいる人々の生の声を知ることができるようになりました。

おかげさまで、最近はテレビを始めとする大手メディア関連の組織の情報はあてにしなくなりました・・・

話が大きくそれましたが、何が言いたかったのかというと、日本政府は警察を含め犯罪組織であり、テロ集団と大差ないという気がしてならないのです。
原発が人災で爆発したことが必然だとすれば、もし手に負えなくなり、作業員全面撤退なんていう事態になったら、それこそ世界中を危険にさらすことになります。

2012年に世界が滅亡するという憶測も、あながち間違いではないかもしれません。

私は、佐藤栄佐久さんの話は大変核心を突いていると感じており、とても信頼しております。
昨年に出演されたCSの番組での対談や、Youtubeにアップロードされている動画を観ていると、政府に対する怒りがこみ上げてくるばかりではなく、同時に生命の危機を感じたりします。

県民の多くは、佐藤栄佐久さんを信頼し続けているはずです。
私もその一人です。

私から頑張ってくださいとは、私より遥かに頑張り続けている佐藤栄佐久さんには口が裂けても言えませんし、見守ることしかできず、自らの無力さを感じておりますが、私はそのお姿から大変大きな活力をいただき、私たち県民のことを誰よりも気にかけてくださっていることを感謝することはできます。

本当にありがとうございます。

長文失礼致しました。