土地を不当に高く買わせる事で実際の価格との差額分1億7千万円余りの利益供与を受けた、それが収賄だ、というのが検察にとって、今回の事件だったはずだ。
一審で1億7千万円のうち、1億円分は認められなかった。
それでも「差額の利益」は認定された。
二審では残り7千万円余りも認定されなかった。
検察が恣意的に現実離れした基準を使って査定し、無理やりひねり出した差額の根拠を一切認定しなかったのだ。
8億7千万円の価値がある土地を8億7千万円で売却した。後に残ったのはそういうことだ。
常識的に読むなら、利益の供与はなかった。
追徴金のない収賄事件など、前代未聞だという。
土地取引によって私が不当な利益を得たという、検察の主張はほぼ全て斥けられ、空っぽになったといってもいい。
「換金の利益」という言葉が残った。
「土地を売ってお金にすること」ということだろう。
そこに含まれる事実は、通常の商取引以外の何物でもないではないか。
記者からも、これが罪の要件になるのか、という質問があった。私も理解できない。
はじめから、「換金の利益」などを根拠に起訴などすれば、検察は笑いものになっていただろう。こんな収賄が成立するのは、人も行かないような利用価値のない荒野や換価できない土地を、売買の対象とした時くらいとのことだ。
当該の土地は、まさに市が発展し、どんどん賑やかになっていく、そのフロンティアにある土地だ。「売れない土地を買ってやる」という類の土地ではないことは地元の人間なら理解できない人はいない。
非常におかしな話だが、私は今ここまでの文を、ジャーナリスティックな視点で書いている。そうならざるを得ないからだ。
土地取引に関する話、土地の売買があった、という事実さえ雑誌に取り上げられた時点で初めて知ったのだ。ほとんどの知識は法廷での他の方の証言でしか得られていない。
三東スーツは父の創業した会社だ。なくなれば寂しくは思う。しかし、潰れるならそれでいい。そう思っていた。正直に言えば、原子力をはじめとする問題をかかえ、県民のまさに命を守るために闘う中でそんなことに関わる暇などあるはずもなかった。
今回高等裁判所は、正当な判断をしたのかといえば、決してそうではない。
「換金の利益」
そのような、実態としてはもはや蝉の抜殻にもならないような言葉に、有罪という実体を与えるために、私が「天の声」を発したという検察側の主張をくっつけた常人の理解からは程遠い判決だ。
仔細に反証した弁護側の意見はほぼ一顧だにされなかった。
むろん反証するまでもなく、私が特定の業者に便宜を図るなどということがないことは、県職員はじめ周りにいたものなら疑いようもなくわかっているはずだ。
「整合性」といった言葉を裁判長が発するたびに、私は検事を指差しつつ、苦笑せざるを得なかった。「君たちが作り上げたのだから当然だ」
調書に整合性があるのは当たり前だ。
検察がまずがっちりストーリーを作り上げ、それに当てはめるように調書は取られていったからだ。事実ではないストーリーに整合性を持たせるために、どれほど無理な取調べや、拷問に近い行為が行われていたか。その一端は法廷での証言にも、より象徴的には、一審の法廷で大きな破裂音とともに机を殴りつけ、裁判長の度肝を抜いた検事の行動にも明確に現れている。
「換金の利益」という、空っぽの言葉を使ってようやく有罪にせざるを得ない虚構の事件に、どれほどの無益な犠牲が払われたのか、それこそが本事件のそして司法の問題点だ。
そこに思いをいたさず、弁護団が立証した証拠の吟味を行わず、用意された虚構のストーリーのレールに乗る裁判所のあり方には我慢のしようもない憤りを感じる。
形として有罪にするために、真実を追究するというあるべき態度を放棄した、不誠実な判断といえる。
法廷を出た直後、ある記者が私に走りより「実質無罪ですね」といってきた。
「いや、有罪だ」そう私は答えた。
実質無罪という言葉にどれほどの意味があるのか、理解しかねる。ペナルティの観点からみれば、一審も「実質無罪」と言ってもいい。実際、そう書いたメディアもひとつふたつあった。
控訴審判決を受け、地元紙が号外を出した。
見出しは、黒々と大きく「前知事 二審も有罪」である。
これが事実だ。
長い年月を経て裁判所の判断や事件の内容の枝葉が全て落ちた後、この見出し1行のみが事実となる。
到底是認することはできない。収賄はなかった、利益の供与はなかった、そう言っているにも等しい判断をしながら、有罪とは全く承服できない。
もとより特定の業者の名前を私が挙げることなど、決して有り得ない事だ。
私が、知事であった時、私の指示に従い、不当な圧力を跳ね除け、襟を正して仕事をしていた県庁の多くの職員や、私の姿勢に共鳴し、支援して下さった多くの方々の名誉のためにも、くどいようだが、もう一度はっきりと言う。私が関わったという事実は一切ないのだ。
控訴審判決は、前述のとおり一審に比べれば大きな前進といえる。
しかし、是認することはできない。
薄皮を一枚々々はがすように、徐々に真実に近づいている、そう宗像先生はおっしゃった。
弁護団の先生方の一滴の水も漏らさぬ、緻密な反証と御尽力がなければここまで到達することもできなかったであろう。
私は、まだ日本の司法を信じている。過程の判断は間違うこともあろう。それは批判されるべきだ。だが判断の誤りが正されるしくみはしっかり持っている。それを信じている。
あと一歩で、真実に到達する。ここで立ち止まることは出来ない。